社長から、広島の営業所長で行ってくれと言われたのは梅雨の真っ最中の頃だった。
社長室から出る時、内心「やったー」と思わず顔がゆるんだ。
釣りを終生の趣味と考えていた私は、仙台、名古屋、京都、広島、福岡と5つある営業所のうち、一番行きたかったのが広島だったからだ。
2週間前に内示が出て、マンションを探しに行った。
総務部から何ヶ所か候補地の資料を貰ったが、最初に行ったマンションは道路を挟んだ向かい側に小さな釣り具屋が見え、廊下に出ると太田川がよく見た。
下の道路は朝晩のラッシュ時に迂回路となり、車の音がうるさいと家内は反対したが昼間留守にする私は即決した。
2週間後に、寝具、衣類とわずかな本、パソコン、そして両手一抱えの釣竿と段ボール2個分の釣り具とともに単身赴任して広島人になった。
7月1日に辞令を受け取り、2日後に営業所へ初出社した日、関係筋にあいさつが終わったあとそごうデパートへ行った。
傘売り場へ直行して、骨の丈夫な傘を捜した。
西日本ではすぐ台風シーズンに入って、直撃を受ける可能性が高いと思ったからだ。
お値段は1万6千円だったが、安心料だと思って買った。
3年間の赴任期間中、そういうシーンに遭遇したのは2回きりだったが、この傘は15年以上経った今でも健在だ。
マンションから駅の往復で太田川の放水路を渡る。
1週間ほど経った頃、朝の出勤時にちょっと放水路を覗いたら橋の下をくぐってカワセミが飛んで行った。
早速その日の昼休みにエディオンへ行って、バードウォッチング用の双眼鏡を買った。
買ってから判った事だが、ここではカワセミなんてちっとも珍しい鳥ではなく、あちこちで見かけた。
この双眼鏡もいまだ活躍中だ。
次にアフターファイブを充実させるために、行きつけにする飲み屋を捜した。
これは営業所からそう遠くないところですぐ見つかった。
2つのテーブル席と5人座れるカウンターがある店だったが、おかみは料亭の娘でそれなりに品が良く、手伝いの人はざっくばらんな性格だが私と同い年で、絶妙な熟年コンビの落ち着く店だった。
広島といえば野球はカープだが、ジャイアンツがカープに勝ったとき思わずヤッターと叫んでしまい、恐る恐る周りを見回した。
昔、出張先の大阪でタイガースに勝った時、ひんしゅくを買った事を思い出したからだ。
ここはジャイアンツファンの溜り場だから大丈夫よとおかみに言われ、一層贔屓にした。
ほどなくジャイアンツファンと釣り好きの常連さん達と親しくなった。
広島は東京都に比べると日没が40分遅く、終業の5時30分に外に出るとまだ明るくて、それに馴れるまで時間がかかった。
半年間は人間関係の構築に心を砕いたが、翌年の春ごろには一段落し、仕事も順調に動き出していた。
朝晩に向かい側の釣具屋の看板をみて通勤してもなかなかその気にならなかったが、気持ちに余裕ができると、釣り心がむっくりと頭をもたげた。
所長会議で東京へ行った時、帰りは自宅から車を運転して広島まで戻った。
車があれば鬼に金棒と、秋までバス釣りにのめり込んだ。
広島県と岡山県の県別地図を買って、野池やダム湖を探してはカーナビに案内させて走り回った。
当時の記録によると、4月から10月末までに50cm超えの1匹を含め、30cm以上のバスを103匹釣ったが、それ以下のバスと型の良いブルーギル、ナマズを含めたら、何匹釣ったかわからない。
関東地方よりすれていないので、バスは教科書通りの釣れ方をして、いろいろ試しながら楽しんだ。
使うルアーも1個千数百円するハード系のプラグからソフト系のワームを使う釣り方に変え、ロスしても1個数十円で済むようになり安上がりに釣りができた。
バスシーズンがそろそろ終わる10月の末、釣具屋のオヤジが海のメバル釣りを教えてくれた。
基本的にはバス釣りと同じなのだが、夜釣りで都合がよく、道具類もひと回り小さく手軽だった。
住宅街を抜けると一番近い漁港へは20分で行けるので、オヤジの言う通りに道具を揃え、試しに釣りに行ってみた。
馴れぬ道具に手こずりながら、20センチぐらいのメバルを一匹だけ釣った。
後で聞いたら、このサイズが釣れるのは珍しい事だったらしいが、その引きの良さにシビレた。
それからは車の中に釣り道具を積みっぱなしにし、帰宅したらすぐ釣り装束に着替え、瀬戸内沿岸の漁港や島々を巡った。
週のうち2,3日は出撃し、呉ポートピアから江田島へのフェリーを回数券で渡り、帰るころにはフェリーがないので、早瀬大橋から音戸の瀬戸に懸かる音戸大橋を渡り、呉市内に出て広島呉有料道路経由で戻った。
夕方7時ごろ現地に着いて、夕飯はコンビニ弁当で済まし、いくつかの港をラン&ガンしながら10時すぎまで釣って、10〜15cm位のメバルが5、60匹釣れた。
全部持って帰っても食べきれないし、飽きてしまうので、型の良いモノ数匹と時々釣れるソイやアイナメ、アジ、カマスを持ち帰り、それを肴に一杯やってから床についた。
瀬戸内の冬は寒さが厳しかったが、晴れれば満天の星で銀河と沢山の流れ星を見られてきれいだった。
そして桜の花の咲くころ、すっかり馴染みになったオヤジさんからアオリイカのエギ釣りをやってみたらと言われた。
バスでも、メバルでも、イカでも疑似餌で釣るときは共通した部分があるので、すぐ飛びついた。
イカ釣りはちょっと特別なロッドがいるので1本新調した。
釣り場は日本海方面なので、浜田自動車道か中国山脈を一般道で越えて釣りにいった。
片道2時間近くかかったが、一番良く釣れたのは三隅港だった。
夕方に着いて、弁当を食べながら時合いを待ち、金曜や土曜の夜は徹夜で釣りをしたこともあった。
そこは中国電力の火力発電所があり、一晩中明々と灯りがついていて、イカ釣りにはもってこいの場所だった。
全くの初心者だった私でもいきなり釣れたし、馴れてくると釣果もあがった。
メバルは硬い小骨が多く食べにくいので、例の飲み屋から持って来ないでネと言われていたが、アオリイカとヤリイカは喜ばれた。
それでも冷凍庫が一杯になるので、釣ったら港に停泊している貨物船の船員さんにあげたり、エサ釣りをしている人に引き取ってもらった。
広島に来てメバルやアオリイカ釣りの新しい釣りを覚え、これにバス釣りを織り交ぜて時期に応じて楽しんだ。
広島へ行ったらこういう展開になるだろうと予想していたので、社長室を出る時顔がゆるんだのだ。
ここまで書くと、仕事をしていたのかとツッコまれそうだが、仕事と遊びのスイッチの切り替えはしっかりするよう心掛けていた。
だが、場所柄か取引先に釣り好きが多く、訪ねて行くと釣果やポイントの話になり、その時はスイッチをニュートラルにしたが、仕事にも役立ったと思っている。
あと少しで3年になろうとした時、義父の葬式の帰りに名古屋駅あたりで激しい腹痛に襲われた。
だが、暫くすると治まったので広島へ戻り、翌日病院へ行った。
「大腸ガンです」
先生は内視鏡の画像を見ながら、ハッキリ言った。
医者の勧めで東京で手術を受けることになり、急きょ戻ることになった。
精密な再検査を受けたら、ガンがかなり進行していて入院が長引いた。
退院する1週間前に本社への転勤が内示され、夢のような広島生活も突然終わりを告げた。
広島へ戻る事は叶わなかったが、「もう一度広島に戻りたい、戻ってやる」と強く思い続けた毎日が、ガンからの回復に良く作用したと今でも思っている。
1月は年初の記事だけで、更新できていない。
なかなか出掛けられないので、「私の履歴書」のような埋め草記事になってしまった。
あの頃はまだ銀塩カメラが主流の時代で、デジカメは高価だったので持っておらず、文字だけの記事になってしまった。
2017年01月18日
広島へ単身赴任していた時の話
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2013年09月30日
寺家ふるさと村
涼風が立ち始めて夏の疲れが出たのか、目の調子が良くない。
なるべくモニターを見ないようにしていたがそうもいかず、目薬を差しながら、急ぎのモノをスローペースで作業していた。
そんな訳で、ブログの更新を後回しにしていたが、出かけなかった訳では無い。
緑は目に良いというし……
台風18号が通過した翌々日、虫たちが落ち着いたであろうと、恒例となった横浜行きの空き時間に、寺家ふるさと村へでかけた。
カラッとした空気と涼しい風が吹き、絶好の観察日和だ。
駐車場から熊野池のほうへ行くが、虫たちが少ない。
雨に叩かれ、風に揺さぶられて、まだどこかへ身を隠しているのだろうか。
気温の高い時期は熊野池でUターンし、林間を抜けてむじな池へ行くのだが、今日は尾根道へ上がり、梅林方面へ降りてからからむじな池へ抜けた。
尾根へ上がってみると、台風で折れた小枝が散乱し、ドングリも青いまま落ちていた。

台風の雨とここ数日の涼しさで、尾根道の脇にキノコが生えていた。



これは傘の直径が13センチあった。
これらのキノコが、食べられるか、食べられないか、ザット イズ クエスチョン。
笹の中をよく探すと、土の中に伸ばした菌糸に沿って、行列して生えている。


母がこの光景を見たらなんと言っただろうか。
母は兵庫県の丹波の近くで育ち、今頃の時期になると、タケが採りたいと言っていた。
私は、何で今ごろ竹を取るのだろうと不思議に思っていたが、後年キノコのことだと判った。
兵庫県では、キノコを採ることを、タケ採りとかタケ狩りとか言うらしい。
母の住んでいたあたりは、マツタケの産地でもあった。
そんな母を、毎年キノコ探しに連れていった。
秋はキノコ、春は摘み草だ。
キノコの生えそうな場所は意外に少なく、丹沢のヤビツ林道、城山ダム周辺や狭山湖の北側、いまの早稲田大学所沢キャンバス付近に広がる雑木林へよく行った。
若いころからキノコ採りに慣れている母は、見つけるのも上手だった。
喜んで採って帰り、新聞紙2枚を広げた上に並べ、満足そうに眺めていた。
きっと、若き日の故郷の山々と楽しかった思い出をかみしめていたに違いない。
だが、キノコは山が一つ違えば地元の人に鑑定してもらわなければ危ないと、決して食べようとはしなかった。
出入りの植木屋さんから、秩父のキノコ採り名人を紹介して貰ったことがある。
10月の初めに期待して出かけたが、時期的に遅いといわれた。
秩父地方では9月のお彼岸過ぎが、出盛りだという。
兵庫県のイメージでいた母は時期を読み違えたようだが、それでも少しは採ることができた。
名人のお墨付きなので安心して食べたが、翌年は名人が臥せってしまい、自分で採ったキノコを食べたのはこれが最初で最後だった。
母の家は農家ではなく、漢方薬の材料を取り扱う商売屋だったので、農作業とは無縁だった。
姉と二人でキノコを採りに行くとき、畑道を通らなければならなかった。
竹籠を持ち、キノコ採りの格好で畑道を通ると、農作業している人が振り返る。
自分たちは山へ遊びに行くので、仕事をしている人達に申し訳ないような気がして、乙女心に嫌だったと、キノコを採りに行った車の中でたびたび聞かされた。
父は母の隣町の出身だった。
私が結婚した年、父は田舎の兄に相当な金額を送って、全部マツタケを買って欲しいと頼んだらしい。
まだ宅配便のない時代、段ボールの箱が2つ届いて、家中にマツタケの匂いが拡がった。
家内の実家に届け、近所にもおすそ分けし、我が家では十分堪能した。
翌年から丹波地方のマツタケは不作となり、いくらお金を積んでも手に入らなくなった。
寺家のキノコが、遠い昔の出来事を思い出させてくれた。
尾根道に佇み、樹間から台風で倒れた稲田を眺めながら両親を思い出し、ちょっぴりしんみりしてしまった。
なるべくモニターを見ないようにしていたがそうもいかず、目薬を差しながら、急ぎのモノをスローペースで作業していた。
そんな訳で、ブログの更新を後回しにしていたが、出かけなかった訳では無い。
緑は目に良いというし……
台風18号が通過した翌々日、虫たちが落ち着いたであろうと、恒例となった横浜行きの空き時間に、寺家ふるさと村へでかけた。
カラッとした空気と涼しい風が吹き、絶好の観察日和だ。
駐車場から熊野池のほうへ行くが、虫たちが少ない。
雨に叩かれ、風に揺さぶられて、まだどこかへ身を隠しているのだろうか。
気温の高い時期は熊野池でUターンし、林間を抜けてむじな池へ行くのだが、今日は尾根道へ上がり、梅林方面へ降りてからからむじな池へ抜けた。
尾根へ上がってみると、台風で折れた小枝が散乱し、ドングリも青いまま落ちていた。

台風の雨とここ数日の涼しさで、尾根道の脇にキノコが生えていた。



これは傘の直径が13センチあった。
これらのキノコが、食べられるか、食べられないか、ザット イズ クエスチョン。
笹の中をよく探すと、土の中に伸ばした菌糸に沿って、行列して生えている。


母がこの光景を見たらなんと言っただろうか。
母は兵庫県の丹波の近くで育ち、今頃の時期になると、タケが採りたいと言っていた。
私は、何で今ごろ竹を取るのだろうと不思議に思っていたが、後年キノコのことだと判った。
兵庫県では、キノコを採ることを、タケ採りとかタケ狩りとか言うらしい。
母の住んでいたあたりは、マツタケの産地でもあった。
そんな母を、毎年キノコ探しに連れていった。
秋はキノコ、春は摘み草だ。
キノコの生えそうな場所は意外に少なく、丹沢のヤビツ林道、城山ダム周辺や狭山湖の北側、いまの早稲田大学所沢キャンバス付近に広がる雑木林へよく行った。
若いころからキノコ採りに慣れている母は、見つけるのも上手だった。
喜んで採って帰り、新聞紙2枚を広げた上に並べ、満足そうに眺めていた。
きっと、若き日の故郷の山々と楽しかった思い出をかみしめていたに違いない。
だが、キノコは山が一つ違えば地元の人に鑑定してもらわなければ危ないと、決して食べようとはしなかった。
出入りの植木屋さんから、秩父のキノコ採り名人を紹介して貰ったことがある。
10月の初めに期待して出かけたが、時期的に遅いといわれた。
秩父地方では9月のお彼岸過ぎが、出盛りだという。
兵庫県のイメージでいた母は時期を読み違えたようだが、それでも少しは採ることができた。
名人のお墨付きなので安心して食べたが、翌年は名人が臥せってしまい、自分で採ったキノコを食べたのはこれが最初で最後だった。
母の家は農家ではなく、漢方薬の材料を取り扱う商売屋だったので、農作業とは無縁だった。
姉と二人でキノコを採りに行くとき、畑道を通らなければならなかった。
竹籠を持ち、キノコ採りの格好で畑道を通ると、農作業している人が振り返る。
自分たちは山へ遊びに行くので、仕事をしている人達に申し訳ないような気がして、乙女心に嫌だったと、キノコを採りに行った車の中でたびたび聞かされた。
父は母の隣町の出身だった。
私が結婚した年、父は田舎の兄に相当な金額を送って、全部マツタケを買って欲しいと頼んだらしい。
まだ宅配便のない時代、段ボールの箱が2つ届いて、家中にマツタケの匂いが拡がった。
家内の実家に届け、近所にもおすそ分けし、我が家では十分堪能した。
翌年から丹波地方のマツタケは不作となり、いくらお金を積んでも手に入らなくなった。
寺家のキノコが、遠い昔の出来事を思い出させてくれた。
尾根道に佇み、樹間から台風で倒れた稲田を眺めながら両親を思い出し、ちょっぴりしんみりしてしまった。
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2013年04月02日
マイフィールド 狭山丘陵
狭山丘陵とは 都立野山北・六道山公園とさいたま森の博物館を指す。
この二つは狭山湖の西方、高根のあたりで繋がっている。
4年前、藤野へギフチョウを見に行った。
-thumbnail2.jpg)
登山口の標識
標高差300mの山をゆっくり登っていったが、頂上直下の急登は退院1ヶ月の身にこたえた。
数頭のギフチョウに会うことができて、写真も撮ることができた。
頂上に設えられたテーブルで早めの昼食を摂っていると、いつも蝶の写真を撮っていますという様子の人が向かい側に座ってきた。
挨拶を交わしたら、蝶の話ですぐ打ち解ける。ここは蝶好きでなければ来ないからだ。
その人に、次はオオムラサキが見たいと思っていますと話したら、狭山丘陵で見られますよと教えてもらった。
家へ帰ってからネットで調べまくって、3日後に行ってみた。
惚れた、 狭山丘陵に。
狭山湖に続くそこには、ン十年前の武蔵野の面影を残す風景がひろがっていたからだ。
私の脳裏にある風景と完全に一致した。
車から一歩降りたまま、周囲を見まわしていつまでも立ち尽くしていた。
昔の恋人が老けぬままそこに現れた、とでもいうように。




私の惚れた、狭山丘陵4連発。
都市化が進む前には、武蔵野市や三鷹市のあちこちにこういう風景が残っていた。
それが、東京の一隅には今も残っていた。
-thumbnail2.jpg)
JR三鷹駅北口にある国木田独歩の詩碑。山林に自由存す と「武蔵野」の一節が刻まれている。
この付近に武蔵野があった証だ。
こうして、狭山通いが始まった。
7月にはオオムラサキにも出会えた。
この年は13回、翌年は12回行った。
最近は行動範囲が拡がってあちこち行くので10回前後に減ったが、マイフィールドとしてすっかり定着した。
ここの魅力は、狭山湖と隣接する多摩湖のまわりに、金網で囲った広大な貯水池周囲林があることだ。
人手の入らない周囲林の面積は、狭山丘陵のゆうに3倍以上あるだろう。
このバックグランドが、ここの多様な生き物の供給源となっているに違いない。
今月から本格的にシーズンインする狭山丘陵は、俺の宝石箱やー。
この二つは狭山湖の西方、高根のあたりで繋がっている。
4年前、藤野へギフチョウを見に行った。
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登山口の標識
標高差300mの山をゆっくり登っていったが、頂上直下の急登は退院1ヶ月の身にこたえた。
数頭のギフチョウに会うことができて、写真も撮ることができた。
頂上に設えられたテーブルで早めの昼食を摂っていると、いつも蝶の写真を撮っていますという様子の人が向かい側に座ってきた。
挨拶を交わしたら、蝶の話ですぐ打ち解ける。ここは蝶好きでなければ来ないからだ。
その人に、次はオオムラサキが見たいと思っていますと話したら、狭山丘陵で見られますよと教えてもらった。
家へ帰ってからネットで調べまくって、3日後に行ってみた。
惚れた、 狭山丘陵に。
狭山湖に続くそこには、ン十年前の武蔵野の面影を残す風景がひろがっていたからだ。
私の脳裏にある風景と完全に一致した。
車から一歩降りたまま、周囲を見まわしていつまでも立ち尽くしていた。
昔の恋人が老けぬままそこに現れた、とでもいうように。




私の惚れた、狭山丘陵4連発。
都市化が進む前には、武蔵野市や三鷹市のあちこちにこういう風景が残っていた。
それが、東京の一隅には今も残っていた。
-thumbnail2.jpg)
JR三鷹駅北口にある国木田独歩の詩碑。山林に自由存す と「武蔵野」の一節が刻まれている。
この付近に武蔵野があった証だ。
こうして、狭山通いが始まった。
7月にはオオムラサキにも出会えた。
この年は13回、翌年は12回行った。
最近は行動範囲が拡がってあちこち行くので10回前後に減ったが、マイフィールドとしてすっかり定着した。
ここの魅力は、狭山湖と隣接する多摩湖のまわりに、金網で囲った広大な貯水池周囲林があることだ。
人手の入らない周囲林の面積は、狭山丘陵のゆうに3倍以上あるだろう。
このバックグランドが、ここの多様な生き物の供給源となっているに違いない。
今月から本格的にシーズンインする狭山丘陵は、俺の宝石箱やー。
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2013年03月26日
横川サービスエリアの思い出
平成5年3月末、上信越自動車道の開通式が横川SA附近の本線上で行われた。
式が終われば、藤岡IC〜佐久IC間が供用開始となる。
私は横川SAで前日から仕事をしながら、道路の開通を待っていた。
その日は朝から晴れて南風が強く、式典会場のテントが飛ばされないか、関係者が気をもんでいた。
横川SA付近は周囲を山に囲まれているが、風向きによっては山に当たった風が道路沿いを強く吹き抜けるからだ。
そんな関係者の心配をよそに、横川SAの下り線側から上り線側のエリアを眺めていた。
サルが出没する地域なので、つるつるに表面加工した高いフェンスでエリアを囲ってあり、その背後にはすぐ山が迫っている。
その山の全体が杉林だ。
気温が上がってくると、南風にあおられた杉林から、黄色い粉をぶちまけたように花粉が飛び始めた。
これ以降、あんな量の花粉は見たことがない。
ちょうどその頃、式典に出席するべく、花粉症持ちの部長が東京から到着し、会場の方へと向かった。
この状況ではあとが大変であろうと思いながら、後ろ姿を見送った。
暫くして、テープカットが終わったのか花火が打ちあげられ、道路が開通した。
関係者が大勢戻ってきたので、そろそろ一般車両の通行が始まるなと思っているところへ部長が戻ってきた。
心配した通り、目のふちを赤くし、タオルで鼻をしきりに拭いている。
クシャミを連発し、声は鼻声で、まともに話ができない。
私は花粉症と無縁だったので、花粉症にはなりたくないと思ったし、仕事とはいえ、こんな所まで来てお気の毒にと同情した。
部長は東京へ戻ってからも、1ヶ月ぐらいはタオルを手放せなかった。

上信越自動車道 下仁田IC付近 もう少し行くと、妙義山の奇景が見えてくる。
本線に車が流れ始めたが、半数以上はエリアへ入って来る。さすが横川の知名度は高い。
横川といえば釜飯であるが、販売は上り線のエリアのみで、下り線のテナントでは扱っていなかった。
下り線のSAへも釜飯を期待してくるお客様が沢山いたので、販売していない旨を説明し、納得してもらうのに苦労した。
そこへ、「1キロくらい手前でサルがはねられています」と女の人が飛び込んできた。
これが、上信越自動車道の交通事故 第一号だった。
3月の今頃になると、こんなことを思い出す。
式が終われば、藤岡IC〜佐久IC間が供用開始となる。
私は横川SAで前日から仕事をしながら、道路の開通を待っていた。
その日は朝から晴れて南風が強く、式典会場のテントが飛ばされないか、関係者が気をもんでいた。
横川SA付近は周囲を山に囲まれているが、風向きによっては山に当たった風が道路沿いを強く吹き抜けるからだ。
そんな関係者の心配をよそに、横川SAの下り線側から上り線側のエリアを眺めていた。
サルが出没する地域なので、つるつるに表面加工した高いフェンスでエリアを囲ってあり、その背後にはすぐ山が迫っている。
その山の全体が杉林だ。
気温が上がってくると、南風にあおられた杉林から、黄色い粉をぶちまけたように花粉が飛び始めた。
これ以降、あんな量の花粉は見たことがない。
ちょうどその頃、式典に出席するべく、花粉症持ちの部長が東京から到着し、会場の方へと向かった。
この状況ではあとが大変であろうと思いながら、後ろ姿を見送った。
暫くして、テープカットが終わったのか花火が打ちあげられ、道路が開通した。
関係者が大勢戻ってきたので、そろそろ一般車両の通行が始まるなと思っているところへ部長が戻ってきた。
心配した通り、目のふちを赤くし、タオルで鼻をしきりに拭いている。
クシャミを連発し、声は鼻声で、まともに話ができない。
私は花粉症と無縁だったので、花粉症にはなりたくないと思ったし、仕事とはいえ、こんな所まで来てお気の毒にと同情した。
部長は東京へ戻ってからも、1ヶ月ぐらいはタオルを手放せなかった。

上信越自動車道 下仁田IC付近 もう少し行くと、妙義山の奇景が見えてくる。
本線に車が流れ始めたが、半数以上はエリアへ入って来る。さすが横川の知名度は高い。
横川といえば釜飯であるが、販売は上り線のエリアのみで、下り線のテナントでは扱っていなかった。
下り線のSAへも釜飯を期待してくるお客様が沢山いたので、販売していない旨を説明し、納得してもらうのに苦労した。
そこへ、「1キロくらい手前でサルがはねられています」と女の人が飛び込んできた。
これが、上信越自動車道の交通事故 第一号だった。
3月の今頃になると、こんなことを思い出す。
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2013年03月24日
山菜採りの思い出
日々の出来事をアップしているが、時折昔のことを思い出す。
長生きしてれば、思い出の一つや二つ、いや三つや四つ、五つ、六つ位あるべ。
The young live hope,the old live remembarance だ。
記憶に正確でないところもあるかも知れないが、これもブログにしてしまおうとカテゴリーに思い出シリーズを追加した。
これはその第一弾。
春のお彼岸が過ぎると、我が家では山菜取りがシーズンインした。
ツクシ、タゼリ、タビラコ
武蔵野水路の脇に、採りつけの場所があった。
ツクシは遠くから見てもベージュ色の絨毯に見えるほど生えていた。
これをデパートの袋三つぐらい、いっぱいに採った。
帰ってから、親指の爪をアクで真っ黒にしながら袴をとり、鰹節でつくだ煮にしたが、出来上がるとウソのように量が減った。
食べるとホロッと苦みがあつて、これで春を感じた。
タゼリ、タビラコはツクシのついでに採って、おひたしやつくだ煮にした。

道端のツクシ達
フキノトウ
山梨県の道志川、秋山川、桂川流域の峠越えの山道で、車をゆっくり走らせながら、見つけては車を止めて採った。峠を越えて帰路につくころには、かなりな量になった。
その日のうちにフキノトウ味噌にして酒の肴に、翌日は天ぷら、残りはつくだ煮にした。
猪苗代湖の近くの畔で、フキノトウが行列するように生えていた。
夢中で採っていると、走っている車がスローダウンして、見物していった。
こんな所で採らなくても…と思っていたに違いない。
ヨモギ、ノビル、ノカンゾウ、スイバ(スカンポ)
4月の半ばから5月の半ばごろ、山道の縁、田の畔をよく見ればどこでも採れた。
ヨモギは沢山とって冷凍し、お餅の材料にした。
ノビルはお味噌をつけて生食し、ノカンゾウは赤貝と酢味噌和えした。
スイバは皮をむいて、マヨネーズをつけて食べたが、名のとおりすっぱくて、沢山は食べられなかった。
20cm位に切り、両端から5cm位の切り込みを何本も入れて水に浸しておくと、皮が反り返って水車のようになり、空洞の芯にお箸を通すと蛇口の水でクルクルとよく回った。
タラの芽、ヤマウド、ギボシ、ミズゼリ
タラの芽はよく知られた山菜で味もよいし、木はいつも同じ場所にあるので、大抵は地元の人に先に採られてしまう。
それでも天ぷら1回分ぐらいの量が採れれば満足だった。
栃木県ではモチタラといわれるトゲのないタラの木があるらしい。その方が数段おいしいらしいが、まだ食べる機会に恵まれていない。
ヤマウドも大きいものは地元の人に採られてしまうが、マメに探せば結構採れた。
ギボシは味噌汁にいれると、ヌメリがでた。
ミズゼリは上野原の耕作放棄地にわんさか生えていた。5,6回抜くだけで、十分だった。
ワラビ
6月の初め、八ヶ岳の麓へ行った。往きに清里の園地へ寄って、そこのツツジの咲き具合で採り旬を占った。7分咲きがベストだった。
しかし、山菜採りがブームになり、山道の入り口で老人会の人が入山料を徴収するようになったり、採りつけの場所が翌年行ったら高原野菜の農地になったりしていて、だんだん行かなくなってしまった。
今でも山の様子を見て、あの辺には生えていそうだと勘が働くので、家で2,3回食べる分位は採ることができる。
これの卵とじは大好物である。
サンショ
若い芽を摘むので、採り旬がむずかしい。
早ければ量が採れないし、遅ければ量はあるが、葉が硬くなり、つくだ煮にした時の食感を左右するからだ。
日光の狭い地域で、高値で取引されるサンショがある。
それを狙ったプロの人もいるが、私たちにも採れるので、土地のおばさんに作り方を聞いてつくだ煮にしたら絶品であった。

大きなサンショの木と奥にタラの木が見えている。
クレソン
忍野村の水路にあるのを見つけたのが最初だったが、近県で気をつけているとあちこちに生えている。
流れのはやいところに生えているものは、大水が出ると根こそぎ流されてしまい、アテにして行ってみるとがっかりすることがある。
バター炒めが一番好きだ。
ヤマブキ(山蕗)
丹沢の沢筋で石油缶に2ハイ採って帰ったら、母が大喜びして翌週また採りにいった。
この事が、我が家の山菜ブームのキッカケになった。
湿った土地を好むが、どこでも生えているわけではないようだ。
静岡県は大井川の支流域、山梨県は富士川の支流の奥へよく行った。埼玉県は探しに行ったが、採れたためしがなかった。
2年前、富士川の支流の奥へ20数年振りに行ってみたが、すっかり様子が変わってしまい、一本も生えていなかった。
家内の親戚へ遊びに行ったとき沢山採って帰ったら、東京モンは変なものを採ると言われたことがある。フキといえば土地の人はイエブキのほうを指すようだ。
キャラブキにする時、ダシは煮干しに限る。
ツクシ、ワラビ、ヤマブキは20年間ぐらい欠かさず採りに行ったが、良い時、悪い時さまざまだった。
採ってきた山菜の山を、道中の楽しかった出来事、母の昔話や次どこへを採りにゆくかなどワイワイ話しながら始末した。
一通りの段取りが終わるのに、深夜まで及ぶこともしばしばであった。
母の田舎での山菜取りは遊びではなかったらしいが、私にとっては贅沢な遊びだったと今になって思う。
長生きしてれば、思い出の一つや二つ、いや三つや四つ、五つ、六つ位あるべ。
The young live hope,the old live remembarance だ。
記憶に正確でないところもあるかも知れないが、これもブログにしてしまおうとカテゴリーに思い出シリーズを追加した。
これはその第一弾。
春のお彼岸が過ぎると、我が家では山菜取りがシーズンインした。
ツクシ、タゼリ、タビラコ
武蔵野水路の脇に、採りつけの場所があった。
ツクシは遠くから見てもベージュ色の絨毯に見えるほど生えていた。
これをデパートの袋三つぐらい、いっぱいに採った。
帰ってから、親指の爪をアクで真っ黒にしながら袴をとり、鰹節でつくだ煮にしたが、出来上がるとウソのように量が減った。
食べるとホロッと苦みがあつて、これで春を感じた。
タゼリ、タビラコはツクシのついでに採って、おひたしやつくだ煮にした。

道端のツクシ達
フキノトウ
山梨県の道志川、秋山川、桂川流域の峠越えの山道で、車をゆっくり走らせながら、見つけては車を止めて採った。峠を越えて帰路につくころには、かなりな量になった。
その日のうちにフキノトウ味噌にして酒の肴に、翌日は天ぷら、残りはつくだ煮にした。
猪苗代湖の近くの畔で、フキノトウが行列するように生えていた。
夢中で採っていると、走っている車がスローダウンして、見物していった。
こんな所で採らなくても…と思っていたに違いない。
ヨモギ、ノビル、ノカンゾウ、スイバ(スカンポ)
4月の半ばから5月の半ばごろ、山道の縁、田の畔をよく見ればどこでも採れた。
ヨモギは沢山とって冷凍し、お餅の材料にした。
ノビルはお味噌をつけて生食し、ノカンゾウは赤貝と酢味噌和えした。
スイバは皮をむいて、マヨネーズをつけて食べたが、名のとおりすっぱくて、沢山は食べられなかった。
20cm位に切り、両端から5cm位の切り込みを何本も入れて水に浸しておくと、皮が反り返って水車のようになり、空洞の芯にお箸を通すと蛇口の水でクルクルとよく回った。
タラの芽、ヤマウド、ギボシ、ミズゼリ
タラの芽はよく知られた山菜で味もよいし、木はいつも同じ場所にあるので、大抵は地元の人に先に採られてしまう。
それでも天ぷら1回分ぐらいの量が採れれば満足だった。
栃木県ではモチタラといわれるトゲのないタラの木があるらしい。その方が数段おいしいらしいが、まだ食べる機会に恵まれていない。
ヤマウドも大きいものは地元の人に採られてしまうが、マメに探せば結構採れた。
ギボシは味噌汁にいれると、ヌメリがでた。
ミズゼリは上野原の耕作放棄地にわんさか生えていた。5,6回抜くだけで、十分だった。
ワラビ
6月の初め、八ヶ岳の麓へ行った。往きに清里の園地へ寄って、そこのツツジの咲き具合で採り旬を占った。7分咲きがベストだった。
しかし、山菜採りがブームになり、山道の入り口で老人会の人が入山料を徴収するようになったり、採りつけの場所が翌年行ったら高原野菜の農地になったりしていて、だんだん行かなくなってしまった。
今でも山の様子を見て、あの辺には生えていそうだと勘が働くので、家で2,3回食べる分位は採ることができる。
これの卵とじは大好物である。
サンショ
若い芽を摘むので、採り旬がむずかしい。
早ければ量が採れないし、遅ければ量はあるが、葉が硬くなり、つくだ煮にした時の食感を左右するからだ。
日光の狭い地域で、高値で取引されるサンショがある。
それを狙ったプロの人もいるが、私たちにも採れるので、土地のおばさんに作り方を聞いてつくだ煮にしたら絶品であった。

大きなサンショの木と奥にタラの木が見えている。
クレソン
忍野村の水路にあるのを見つけたのが最初だったが、近県で気をつけているとあちこちに生えている。
流れのはやいところに生えているものは、大水が出ると根こそぎ流されてしまい、アテにして行ってみるとがっかりすることがある。
バター炒めが一番好きだ。
ヤマブキ(山蕗)
丹沢の沢筋で石油缶に2ハイ採って帰ったら、母が大喜びして翌週また採りにいった。
この事が、我が家の山菜ブームのキッカケになった。
湿った土地を好むが、どこでも生えているわけではないようだ。
静岡県は大井川の支流域、山梨県は富士川の支流の奥へよく行った。埼玉県は探しに行ったが、採れたためしがなかった。
2年前、富士川の支流の奥へ20数年振りに行ってみたが、すっかり様子が変わってしまい、一本も生えていなかった。
家内の親戚へ遊びに行ったとき沢山採って帰ったら、東京モンは変なものを採ると言われたことがある。フキといえば土地の人はイエブキのほうを指すようだ。
キャラブキにする時、ダシは煮干しに限る。
ツクシ、ワラビ、ヤマブキは20年間ぐらい欠かさず採りに行ったが、良い時、悪い時さまざまだった。
採ってきた山菜の山を、道中の楽しかった出来事、母の昔話や次どこへを採りにゆくかなどワイワイ話しながら始末した。
一通りの段取りが終わるのに、深夜まで及ぶこともしばしばであった。
母の田舎での山菜取りは遊びではなかったらしいが、私にとっては贅沢な遊びだったと今になって思う。
posted by massy at 08:00| Comment(2)
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