2013年09月30日

寺家ふるさと村

涼風が立ち始めて夏の疲れが出たのか、目の調子が良くない。
なるべくモニターを見ないようにしていたがそうもいかず、目薬を差しながら、急ぎのモノをスローペースで作業していた。
そんな訳で、ブログの更新を後回しにしていたが、出かけなかった訳では無い。
緑は目に良いというし……

台風18号が通過した翌々日、虫たちが落ち着いたであろうと、恒例となった横浜行きの空き時間に、寺家ふるさと村へでかけた。

カラッとした空気と涼しい風が吹き、絶好の観察日和だ。

駐車場から熊野池のほうへ行くが、虫たちが少ない。
雨に叩かれ、風に揺さぶられて、まだどこかへ身を隠しているのだろうか。

気温の高い時期は熊野池でUターンし、林間を抜けてむじな池へ行くのだが、今日は尾根道へ上がり、梅林方面へ降りてからからむじな池へ抜けた。

尾根へ上がってみると、台風で折れた小枝が散乱し、ドングリも青いまま落ちていた。

1ドングリ.jpg

台風の雨とここ数日の涼しさで、尾根道の脇にキノコが生えていた。

2キノコ.jpg

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4キノコ.jpg
これは傘の直径が13センチあった。

これらのキノコが、食べられるか、食べられないか、ザット イズ クエスチョン。

笹の中をよく探すと、土の中に伸ばした菌糸に沿って、行列して生えている。

7キノコ.jpg

5キノコ.jpg

母がこの光景を見たらなんと言っただろうか。


母は兵庫県の丹波の近くで育ち、今頃の時期になると、タケが採りたいと言っていた。
私は、何で今ごろ竹を取るのだろうと不思議に思っていたが、後年キノコのことだと判った。
兵庫県では、キノコを採ることを、タケ採りとかタケ狩りとか言うらしい。
母の住んでいたあたりは、マツタケの産地でもあった。

そんな母を、毎年キノコ探しに連れていった。
秋はキノコ、春は摘み草だ。
キノコの生えそうな場所は意外に少なく、丹沢のヤビツ林道、城山ダム周辺や狭山湖の北側、いまの早稲田大学所沢キャンバス付近に広がる雑木林へよく行った。
若いころからキノコ採りに慣れている母は、見つけるのも上手だった。
喜んで採って帰り、新聞紙2枚を広げた上に並べ、満足そうに眺めていた。
きっと、若き日の故郷の山々と楽しかった思い出をかみしめていたに違いない。
だが、キノコは山が一つ違えば地元の人に鑑定してもらわなければ危ないと、決して食べようとはしなかった。

出入りの植木屋さんから、秩父のキノコ採り名人を紹介して貰ったことがある。
10月の初めに期待して出かけたが、時期的に遅いといわれた。
秩父地方では9月のお彼岸過ぎが、出盛りだという。
兵庫県のイメージでいた母は時期を読み違えたようだが、それでも少しは採ることができた。
名人のお墨付きなので安心して食べたが、翌年は名人が臥せってしまい、自分で採ったキノコを食べたのはこれが最初で最後だった。

母の家は農家ではなく、漢方薬の材料を取り扱う商売屋だったので、農作業とは無縁だった。
姉と二人でキノコを採りに行くとき、畑道を通らなければならなかった。
竹籠を持ち、キノコ採りの格好で畑道を通ると、農作業している人が振り返る。
自分たちは山へ遊びに行くので、仕事をしている人達に申し訳ないような気がして、乙女心に嫌だったと、キノコを採りに行った車の中でたびたび聞かされた。

父は母の隣町の出身だった。
私が結婚した年、父は田舎の兄に相当な金額を送って、全部マツタケを買って欲しいと頼んだらしい。
まだ宅配便のない時代、段ボールの箱が2つ届いて、家中にマツタケの匂いが拡がった。
家内の実家に届け、近所にもおすそ分けし、我が家では十分堪能した。
翌年から丹波地方のマツタケは不作となり、いくらお金を積んでも手に入らなくなった。

寺家のキノコが、遠い昔の出来事を思い出させてくれた。
尾根道に佇み、樹間から台風で倒れた稲田を眺めながら両親を思い出し、ちょっぴりしんみりしてしまった。


posted by massy at 17:31| Comment(0) | 思い出シリーズ
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