2017年01月18日

広島へ単身赴任していた時の話

社長から、広島の営業所長で行ってくれと言われたのは梅雨の真っ最中の頃だった。
社長室から出る時、内心「やったー」と思わず顔がゆるんだ。
釣りを終生の趣味と考えていた私は、仙台、名古屋、京都、広島、福岡と5つある営業所のうち、一番行きたかったのが広島だったからだ。

2週間前に内示が出て、マンションを探しに行った。
総務部から何ヶ所か候補地の資料を貰ったが、最初に行ったマンションは道路を挟んだ向かい側に小さな釣り具屋が見え、廊下に出ると太田川がよく見た。
下の道路は朝晩のラッシュ時に迂回路となり、車の音がうるさいと家内は反対したが昼間留守にする私は即決した。
2週間後に、寝具、衣類とわずかな本、パソコン、そして両手一抱えの釣竿と段ボール2個分の釣り具とともに単身赴任して広島人になった。

7月1日に辞令を受け取り、2日後に営業所へ初出社した日、関係筋にあいさつが終わったあとそごうデパートへ行った。
傘売り場へ直行して、骨の丈夫な傘を捜した。
西日本ではすぐ台風シーズンに入って、直撃を受ける可能性が高いと思ったからだ。
お値段は1万6千円だったが、安心料だと思って買った。
3年間の赴任期間中、そういうシーンに遭遇したのは2回きりだったが、この傘は15年以上経った今でも健在だ。

マンションから駅の往復で太田川の放水路を渡る。
1週間ほど経った頃、朝の出勤時にちょっと放水路を覗いたら橋の下をくぐってカワセミが飛んで行った。
早速その日の昼休みにエディオンへ行って、バードウォッチング用の双眼鏡を買った。
買ってから判った事だが、ここではカワセミなんてちっとも珍しい鳥ではなく、あちこちで見かけた。
この双眼鏡もいまだ活躍中だ。

次にアフターファイブを充実させるために、行きつけにする飲み屋を捜した。
これは営業所からそう遠くないところですぐ見つかった。
2つのテーブル席と5人座れるカウンターがある店だったが、おかみは料亭の娘でそれなりに品が良く、手伝いの人はざっくばらんな性格だが私と同い年で、絶妙な熟年コンビの落ち着く店だった。
広島といえば野球はカープだが、ジャイアンツがカープに勝ったとき思わずヤッターと叫んでしまい、恐る恐る周りを見回した。
昔、出張先の大阪でタイガースに勝った時、ひんしゅくを買った事を思い出したからだ。
ここはジャイアンツファンの溜り場だから大丈夫よとおかみに言われ、一層贔屓にした。
ほどなくジャイアンツファンと釣り好きの常連さん達と親しくなった。
広島は東京都に比べると日没が40分遅く、終業の5時30分に外に出るとまだ明るくて、それに馴れるまで時間がかかった。

半年間は人間関係の構築に心を砕いたが、翌年の春ごろには一段落し、仕事も順調に動き出していた。
朝晩に向かい側の釣具屋の看板をみて通勤してもなかなかその気にならなかったが、気持ちに余裕ができると、釣り心がむっくりと頭をもたげた。
所長会議で東京へ行った時、帰りは自宅から車を運転して広島まで戻った。
車があれば鬼に金棒と、秋までバス釣りにのめり込んだ。
広島県と岡山県の県別地図を買って、野池やダム湖を探してはカーナビに案内させて走り回った。

当時の記録によると、4月から10月末までに50cm超えの1匹を含め、30cm以上のバスを103匹釣ったが、それ以下のバスと型の良いブルーギル、ナマズを含めたら、何匹釣ったかわからない。
関東地方よりすれていないので、バスは教科書通りの釣れ方をして、いろいろ試しながら楽しんだ。
使うルアーも1個千数百円するハード系のプラグからソフト系のワームを使う釣り方に変え、ロスしても1個数十円で済むようになり安上がりに釣りができた。

バスシーズンがそろそろ終わる10月の末、釣具屋のオヤジが海のメバル釣りを教えてくれた。
基本的にはバス釣りと同じなのだが、夜釣りで都合がよく、道具類もひと回り小さく手軽だった。
住宅街を抜けると一番近い漁港へは20分で行けるので、オヤジの言う通りに道具を揃え、試しに釣りに行ってみた。
馴れぬ道具に手こずりながら、20センチぐらいのメバルを一匹だけ釣った。
後で聞いたら、このサイズが釣れるのは珍しい事だったらしいが、その引きの良さにシビレた。
それからは車の中に釣り道具を積みっぱなしにし、帰宅したらすぐ釣り装束に着替え、瀬戸内沿岸の漁港や島々を巡った。
週のうち2,3日は出撃し、呉ポートピアから江田島へのフェリーを回数券で渡り、帰るころにはフェリーがないので、早瀬大橋から音戸の瀬戸に懸かる音戸大橋を渡り、呉市内に出て広島呉有料道路経由で戻った。
夕方7時ごろ現地に着いて、夕飯はコンビニ弁当で済まし、いくつかの港をラン&ガンしながら10時すぎまで釣って、10〜15cm位のメバルが5、60匹釣れた。
全部持って帰っても食べきれないし、飽きてしまうので、型の良いモノ数匹と時々釣れるソイやアイナメ、アジ、カマスを持ち帰り、それを肴に一杯やってから床についた。
瀬戸内の冬は寒さが厳しかったが、晴れれば満天の星で銀河と沢山の流れ星を見られてきれいだった。

そして桜の花の咲くころ、すっかり馴染みになったオヤジさんからアオリイカのエギ釣りをやってみたらと言われた。
バスでも、メバルでも、イカでも疑似餌で釣るときは共通した部分があるので、すぐ飛びついた。
イカ釣りはちょっと特別なロッドがいるので1本新調した。
釣り場は日本海方面なので、浜田自動車道か中国山脈を一般道で越えて釣りにいった。
片道2時間近くかかったが、一番良く釣れたのは三隅港だった。
夕方に着いて、弁当を食べながら時合いを待ち、金曜や土曜の夜は徹夜で釣りをしたこともあった。
そこは中国電力の火力発電所があり、一晩中明々と灯りがついていて、イカ釣りにはもってこいの場所だった。
全くの初心者だった私でもいきなり釣れたし、馴れてくると釣果もあがった。
メバルは硬い小骨が多く食べにくいので、例の飲み屋から持って来ないでネと言われていたが、アオリイカとヤリイカは喜ばれた。
それでも冷凍庫が一杯になるので、釣ったら港に停泊している貨物船の船員さんにあげたり、エサ釣りをしている人に引き取ってもらった。

広島に来てメバルやアオリイカ釣りの新しい釣りを覚え、これにバス釣りを織り交ぜて時期に応じて楽しんだ。
広島へ行ったらこういう展開になるだろうと予想していたので、社長室を出る時顔がゆるんだのだ。

ここまで書くと、仕事をしていたのかとツッコまれそうだが、仕事と遊びのスイッチの切り替えはしっかりするよう心掛けていた。
だが、場所柄か取引先に釣り好きが多く、訪ねて行くと釣果やポイントの話になり、その時はスイッチをニュートラルにしたが、仕事にも役立ったと思っている。

あと少しで3年になろうとした時、義父の葬式の帰りに名古屋駅あたりで激しい腹痛に襲われた。
だが、暫くすると治まったので広島へ戻り、翌日病院へ行った。
「大腸ガンです」
先生は内視鏡の画像を見ながら、ハッキリ言った。
医者の勧めで東京で手術を受けることになり、急きょ戻ることになった。

精密な再検査を受けたら、ガンがかなり進行していて入院が長引いた。
退院する1週間前に本社への転勤が内示され、夢のような広島生活も突然終わりを告げた。
広島へ戻る事は叶わなかったが、「もう一度広島に戻りたい、戻ってやる」と強く思い続けた毎日が、ガンからの回復に良く作用したと今でも思っている。

1月は年初の記事だけで、更新できていない。
なかなか出掛けられないので、「私の履歴書」のような埋め草記事になってしまった。
あの頃はまだ銀塩カメラが主流の時代で、デジカメは高価だったので持っておらず、文字だけの記事になってしまった。


posted by massy at 16:44| Comment(0) | 思い出シリーズ
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